昭和50年06月10日 朝の御理解



 御理解 第89節
 「此方の道は傘一本で開く事が出来る。」

 お道の信心は無から有が生ずると言われる。何んにも無い所からおかげが頂かれると言うのです。無から有が生ずる。お道の先生方が布教に出る。それこそ体一貫まぁせいぜい親教会から頂いて行くと言うなら、せいぜい米一俵も頂いて行きゃ、まあ良い方。その米一俵食べてしまう間には道が開けるだろう、いや開けると云うそう言う言わば確信を持って行くという、だからもう始はもうそれこそ他の軒下の様な所を借りてからの布教、そう言う先生の所が多いかった。
 立派な家を建てたり又はいろんな諸準備を整えて、そして布教に出ると言った様な在り方の先生方がまぁ殆どであっる。それは所謂此方の道は傘一本で開く事が出来ると言う、御教えを実証された訳ですね。四畳半か六畳かの間借りをされる、そして家賃が払われんと言やあー追い立てを食う様な苦しい中を通っとられます。食べんお供えがなかならもう御飯も多べん。それこそ断食と言う修行はないにしても、神様が求めなさる断食是は素晴らしい修行だと思うですね。
 あそこにちょいと米一升貸して下さいなんて言わん、此処から金百円ちょいと貸して下さいてな事言わん。そう云う言うならば背水の陣を敷くというか、言うならば命掛けで命をそこに懸けて布教に出られる、そこに神様を信じ切る、神様が必ず道をひらいて下さると言う確信を以です、そう言う様な言わば意味の事で御座いましょうね。此方の道は傘一本で開ける道、此処にもたくさん先生方が出来られます。まだ一人も本当の意味での布教には出ていません。
 今度桜井先生達夫婦が、此処へ転籍になりましたから二十名からの先生達が居るわけですが、その二十名の先生方が、何時かは遅かれ早かれ、御神意神様の御神意が熟したら、布教に出らなきゃならないだろう。そう言う時にですこの傘一本持ってさえ行っとけば、大丈夫だと云う信心を頂いとかなきゃぁいけん。傘一本と云う事は、何時も常時傘を持っておると言う事は、天気の良い暑い日には、日傘代りにもなるだろう、雨が降って来たらそれを差しゃ良い。
 所が傘を持たんと、厚ければ暑い思いをしなければならない。降って来れば濡れなければならない。そこに雲行きでも悪うなって来るとね、サアー是は降りだんせんぢゃろうかと、もう不安の中にその曇った中を歩かなければならない。ポチポチ落ちでも来ると走り出さなければならない。そう言う意味で私しは傘と言う事は、信心に依って神様を信ずる確信する、そこから生まれて来る安心。
 神様を信じて疑わない、そして神様がもし下さるんなら、それこそ断食しても、飢え死にしても構わんと言う様な勢いと云う物が、是はお道の先生方だけぢゃない、信心はそう云う言うならば潔さと云う物がなからなきゃ、本当のおかげは受けられません。是りゃまあ、私くしの流儀ですけれども、私くしは此処から先生方が出て、何処に布教に出ると言ったら、家も建ててやろうと思う。
 ちゃんとならお取次が出来る様に御結界、御神前。是りゃ光橋先生が支部を久留米に作った時には、家も借りてやりました。改造も全部してやりました。まあしてやったと言うか、まあーさせて頂きました。取り払うと二十四枚のお広前がこう出来る。その一部の方へ先生達夫婦が住んで、神饌室もちゃんと、まぁ一通りお取次が出来る様にして、一年間私が家賃を払わして頂きました。おかげでもう二年目からは、家賃も払ろうて貰わんで良い位に、おかげを段々頂きました。是は私の流儀です。ね。
 そこからどう言う風に進展して大きくなって行く、そりゃそれからは先生の力一つです、初めからまあ畳そりゃそのそう言う、傘一本持っとりゃさぁそのままですそう言うそりゃまぁそこの先生の流儀でしょうからね、私しはそう云う風に思う。それは又或る意味あいで、金光大神の面子にも関わる事。あヽあちらに布教する金光様の布教所と例えば信心がない者が見た時に、布教所なら布教所らしい私はさせて貰わにゃならん。
 是は私の流儀ですけれども、なら愈々自分がなら布教に出る者は、今申します様な傘一本で出れれると言うだけの力と言うか安心と言うかね、神様を信じて疑わない物を頂いておかなければね、先々が思いやられる。先生これはね先生方の事だけではないです、その位の潔さと云う物が信心には要るとです。信心には度胸が要ると言うのはそう言う事です。親先生任せになっておる、若し是が右になったり左になったらどうするだろうかと。えヽ昨日一昨日でしたか、秋永先生の御導きで大分からお参りになりました
 。元その方は日田に長く住んでおられました。たまたまあのう綾部さんの話が出まして、綾部さんはもう何年か前、あのうもう大分当たりまで日田の丸亀はもう仕舞えたげな、もう潰れたげなと、倒産したげなと言う評判が立っとったが、まだやって行きよんなさるですか、と言う話が出ました。ね。あれだけの大きなお商売をなさっとられる、成程あの時分にもうそれこそ親先生任せになり切って居なかったら、確かに倒産しとったでしょう。潰れとったでしょう。
沢山な言うならば金の或る造り酒屋さんの保証にたっちゃったが、その酒屋さんが潰れたんですから、然も金まで貸してあったし、保証にんにも立ってあたんですから。もうそれこそ日の内に何回と電話の掛かって来る様な事がありました。それでももうそれこそ一点張りね、もうそれこそその侭でよい心配いらん、けどまだ心配になる。もうそりゃ本当に気が気にゃない程しの事であったけれども、それを頂き抜かして頂いて沢山の人が日田には倒産する程しの人が出来ました、引っ掛かった訳です。
 所が綾部さんの処だけは、引っ掛かる所か利子まで全部入りました。ね。成程是は私しとと皆さんと言うの場合であっても、如何に親先生が偉かってもです、例えばですよ親先生が右と仰っても、親先生はあヽ仰るばってんと言って、そう言う時にうろうろしたら、もうやっぱりお仕舞いです。だから云わば度胸が要る訳です。その造り酒屋さんもそんな愈々難儀になられて、綾部さんのお導きでお参りして来ておられました。段々もうそれこそ親先生任せで行きょられました。
 今に熱心に参って来ょんなさった。もう所がもうそれこそ沢山な借金でやあやあ言われるもんですからもう愈々いかん時に、私くしが一っ時ばかり御本部に私しは逃げなさいと私くしが言った。だから一っ時ばかり御本部に行きなさいって私しが。そして平田さんの例を話ました。平田さんも愈々ん時に、親先生にお伺いをされた。こう言う所に立ち至っとりますが、自決しましょうか、満州に飛びましょうかと言うお届けされた。ね。もうこりゃー自分で腹でも切らにゃ出けん所まで行っちゃった。
 でなければ満州さん辺りまでも高飛びしょうか、と言うお届けをされた時に、親先生が高飛びも要らん腹切る事も要らん、と言わっしゃった。そりゃ大変な事だったらしい、けれどもそれから終戦になりね、それからもう兎に角もうその時は、だから暫く御本部へあちらへ行っとられました。まあだから平田が逃げたと云う事になる訳ですけれども、その暫く言うならば身を隠す要な事でもです、後がおかげになった。
 例えばその方は麻生と言いますか、ね、造り酒屋さん、あん時に私しが言うとくとにもう半年間辛抱もうその時がですね、その大変沢山な山林を持って居られたです。所がその山林が一番下げたと言う時じゃた値段が下げた、だからそれを全部処理しても、まあだ何億と言うあのー借財が残る訳なんです。どうですか半年後にゃそれこそもう、もうそれこそべら棒に値上がりしました。本当に麻生さんちゃ運の無か人ぢゃあるの、もう半年保って御座ら借金払いが出来た所じゃなくてから、まだ何億残る所じゃったち、ね。
 だから愈々の時にゃそれこそ、その潔さと云う物がなからなきゃいけませんですね、その潔さがです。此方の道は傘一本で開ける道だと言う、愈々そのどん腹据える時は据えなきゃならん。そん為には愈々神様を信じれれる力を頂いとかなきゃならない。親先生を信じれれる信心を頂いとかなければいけません。昨日末永先生宛に或る教会の先生から、お手紙が来た。そして此処へ先生一寸見て下さいと言うてから、まあ親先生にお伺いして呉れと言う事ぢゃから、此処へ持って来たんです。
 実は私はその先生は相当年増の先生ですけれども、私しはこの神秘的な事と云う事を、あまり信じない方だと言われるんです。けれどもここに不思議なお夢を頂きましたから、この事を親先生にお伺いをして呉れ、そしてこの問題とどう言う関連をもっておるものか、お伺いをして呉れと言って、自分の娘さんのっ結婚の事とか心配な事、家庭の事様々な問題をを箇条書きにずうっと書いて御座いました。
 その問題と、このお夢がどう言う関連をもっておるものでしょうか、お伺いして呉と言う手紙だった。そのお夢と言うのが海に船を漕ぎ出しておられる。その漕ぎ出しとる船に自分が箪笥を乗せとる、波が揺れて来た箪笥がこう揺れるたんびに、引き出しがパーッと出て来て、もう今にも海の中に飛び出して行こうごとある。そう言う中を行ってる内にまあー海が静まったから、まあーやれやれと安心。
 私くしは不思議なとか神秘的なとか、御神夢何んかと云う様な事なんかはもう、夢なんかと云う様な感じの先生であろうと思うのです。神秘的な事は自分は信じない生き方、もう現実主義だと言う。然し今のお取次を頂かれる先生方の中に、そう言う先生が増えたから、人が助からん事になったんですね。なしや医者が見放した病人が助かるちゅうけん、こげな不思議な事はないじゃないですか、ならそう言うだからおかげが信じないと言うのだから、おかげの頂けれる筈がないです。
 言うならば、無から有が生じるてなんてん云う、そう言う不思議な事はもう在り得ないすら決め付けておる先生方があるのじゃないだろうかと私しは思う。只普通で言う人事相談なんかがありますね、ようテレビやら雑誌やら、言うならばね、普通常識的だと云う事なのです。此処では常識的な事は申しません。私の生き方は言うならば非常識にも見えるけれど、私くしのは超常識だと言う訳です。
 昨日、私くしが此処の修行生の方達を共励殿に集めてから、あんまり此頃ろくそうなかから少し気合を入れた。そして此処を退らせて頂く時に色々あのう兎に角、この頃教会内が愈々乱れとる感じがする。此頃から青年会であのう御用さして貰うて、この絨毯なんかを全ぇん部取片付けて、それがお掃除もせんな只いきなりグルグルてんでいきなり巻いてから、共励殿に打ち立ててあった。
 それをあんた方は此処の廊下を通る時、行ったり来たりしながら見とらせんのかとまあ言うならば、私しがお風呂の事を何時も申します。それこそもう本当にもう石鹸一つでもタオル一本でも、その使うたら使うた後の様を好くしなければいけない。それはね決して風呂場だけの事じゃないよと、あんた達の部屋もお広前の隅々が、いやあんた達の心その物が、私が何時も風呂の例だけしかしとらんけれども、風呂場で此頃おかげ頂いて、皆んなが私くしが喧しく言うから、それこそ何時入っても綺麗に取り片付けてある。
 もう気持ちよい事出来ておる。だから風呂場だけぢゃでけん。ね。さぁそれからもう大慌てに慌てて、外を片付ける者、内を片付ける者で、それを裏の方で丁度妹が聞きよってから、それを聞いておった。そして私くしこちらに出て来たら私に喧しく言うですもん。とてもあの時には絨毯を片付けた青年会の方達なんか、兎に角若先生が私が言う事は聞きやせん、そげなこつでよかのと言うけど、若先生が青年会の方達まだ仕舞えてもおらんとに、連れてからどこかパチンコなんかに行った。
 後でもう末永先生は一人で一生懸命し御座った。一生懸命し御座ったとなら、どうして此処が片付いとらんか、と私しがまあ言う訳ですよ。そしてねお前が言うのはね、言うならば常識的人情的に、私しが言うのは超常識だ。成程家の子供達がもうそりゃもっともっとろくそうなか、けれども是は別だと私くしが言う。家の子供達の場合はもう言わんでんそれこそ神様が育てなさる。
 此処でなら修行生の方達は、神様が育てなさるのだけれども、けれども何時布教に出らなきゃ解らないぞと。親のてもとばかり居る師匠のところにずうとおると云う事じゃない。何時神様がサア明日から布教に出ろと言われるか解らんぞと。そげなこと言うなら、自分の子供ばっかりひいきにしてから、修行生ばかり怒ってからっちゅうて、とまぁ言う訳なんです、妹は。
 だから言うて聞かしても解るね、あまり腹けえとるもんじゃけん、その妹が方が裏から聞きよった訳です。家の修行生の方達はとてそりゃ出来過ぎる事出来ちゃるち、此処の息子だんどうのち言う訳ですよ。ひいきする訳でも何んでも何んでもないけれども、是はまあーお話しをするなら長うなりますけれども、言うならばね常識的に言うなら、妹の言うのが本なこっちゃけれども、超常識的なのだから、まあそう言う風に不自然に聞こえる事もあるかも知れんけれども。
 問題はこの人達が傘一本持ってでも、傘一本ででも道の開ける様な力を受ける為には、こげなこっちゃ出来んて私が。それこそ昨日○○先生から来ておるその手紙の、その様に来ておるその先生の所の教会の位ならそれで良か、けども合楽の出社としておかげ頂いたら、本当に愈々人が助かるお広前でなからにゃでけん。あそこの先生は利口者ぢゃから、あそこの先生は仲々常識的ぢゃからと言うて、人間の評判のよかろうばって、神様に評判が悪い、神様から信用が付かん様な事では。
 無から有が生じると云う様な、言うなら助からん病人が助かったり、開けん道が開ける様にはならん。だから私しが云う事は、超常識だからと言うても、解らん者は解らん訳です。特に私の妹なんかは非常にその人情家でもありますし、その常識は私くしよりも発逹している訳です。だからこりゃー中々やっぱり、普通人間的には出来とります。けども信心をさして頂いたら、この超常識的な信心と云う物が言うならば、それを私が道徳的とか、是が普通です。非道徳と言うたら、是は愈々つまらんと。
 常識でもそうです非常識な奴が居ります。そげんとはもう愈々人間の屑です、けれども私くしが云う事も、言うならば非道徳に見えたり、非常識に見えるごたるけれども、よく良く考えると超道徳、超常識的であるから、私くしの所では超の付く様なおかげを受けとろうがと、私が言いました。ね。要約言うならば教会になって七年間、云わば千八百坪の云わば所に、こう言うね、大きな教会が出来た。
 十年祭を使える為色々と話合いがあっとるが、言うなら千八百坪位が又千八百坪位を広げようと云う程しにあるてなんてん、誰が聞いてもこりゃ超の字が付かねばならないおかげです。今に見よってご覧なさい是が倍になりますから。唯普通の常識的な事から考えて出来るこっちゃないです。ね。信心とは本当に超道徳を教え、言わば変人になれ変人になれ、変人にならんと仰るのはそう云う意味で変人にならにゃならんです。
 私くしが昨日久振りに雷が落ちたと云う訳でしょうけれども、神様から私くしの事をお願いさして貰いよったらね、是は言うとかにゃいけまいかなあとこう思うて、頂いたのが、若葉古葉と頂いたです。若い葉古い葉と言う例えば私くしを古い葉にするなれば、修行生の方達は、この上に又若葉として、同じに栄て行かねばならない人達だと云う事。同時に又お願いさして貰いよったら、あのう若葉古葉と言うのを、この口の中のこの歯でうね、この歯を頂くんです。
言うなら古い歯、新しい歯とはどう云う事を云う事かと言うと、入れ歯と云う事です。是は私くしが言う通りにさせて、私がままになる為には、歯が抜けてしもうとっても、入れ歯をはめてままになると云う事です。皆さんでもそうですもう言うちゃならん、黙って治めるばっかりだけれどもです、皆さんが言うてそれを、それが本当に聞かれるならば、言わなきゃいけないです。言うならば、怒りもせんならんです。
 けども言うても聞かん怒っても聞かんちゅうならばもう言うならね、家の息子達の様に言うても聞かんなら、言うたっちゃ同し事ってす。けど言って聞く事あるなら、言うならば聞かんと言う事は、歯がないからまヽにならんどるとだから、入れ歯を填めてからでもままんならなきゃいかん、噛まなきゃいけんと言うご理解を頂いたから、昨日私しが少し気合を入れたんです。
 所が家の修行生の方達は、それこそ私くしが滅多ちゅうか、それこそどうだか十年振り位ちゃなかろうか、私があげな大きな声を出したのは、けどそれこそ、言うた途端にです、言う事を聞くでしょうが。私しは夕べは三遍ここを廻った。そがしこしとるばってんやっぱ、応接間夜中に電気が明々と点いとる、まだ。まぁだ忘れとる。是だけ広いからですねいろんなそりゃろくそうな事があっちこっち出来よります。
 御無礼な事が如何に心を込めて、言うならば如何に私くしが言う心行が本当に出来なければ、整頓が出来んと云う事が解ります。まあそこで話はまぁ元に戻りますがね、その先生から来たそのお手紙がこう言うお夢を頂いた。そして自分の持って居る難儀な事娘さんの事教会の事、色々箇条書きに色々書いてあった。その関連はどう云う様な風に関連づけたら良かろうか、そう云う意味でのまぁお知らせであろうかと云う訳です。
 それで私が申しまっした。船と云う事は言うなら金光大神のお得の船だろう、それに乗っとる教会長だろう。所がですもう自分の事だけで腹一杯、自分の事だけで頭いっぱい、さあ娘の結婚の事であらもう教会の、言わばもういろんな難儀な問題、自分自身教会長自身の難儀な問題で一杯ですから、信者が乗ろうとしても乗れない。はぁして雨が風がどん吹いて来ると、箪笥が海に飛出そう事あるもんだから、もうそれば押さえといて、もう兎に角自分の言うなら、箪笥と云う事は自分の者と云う事でしょうよ。
 自分の持っとる物だけは放しちゃならん、海の中に落ちこんじゃならんちゅ、その事だけで一生懸命ですから、信者の事だん考える暇がない。信者を乗せる余裕がなか。ね。それこそ四神様の御教えじゃないけれども、船諸共と云う気になれと仰る。私くしどんの場合は大きな船を持っとるけれども、自分の事とか家内子供の事なんか、それこそ全然乗っとらんです。だからその幾つもそこ連ねて書いてある所の問題もです、自分自身の物を一遍投げ捨てて、言うなら箪笥を降ろして。
 同時にならこの船で行きよってもです、ほんなら愈々風が吹いてもどう云う高い波が起きて来てもです、それと同時にです船もろともと云う気になれば楽ですよ。その楽な心におかげが頂かれる。楽な心に人が助かる。自分の事が心配で腹一杯、それに信者の心配な事をお願いする、とてもあんたん事の段ぢゃなかと言う事になって来るじゃろう。是で教会が助かる筈がない。生々としたものが、所謂不思議な物が生まれて来る筈がない、と言う事になるのです。
 今日私くしこの教典を開かせて頂いたら、一番初めにこの御理解と言うこの白紙のところを頂いた、御理解のこの御の字を頂いたんです。御の字はぎょうにん扁に卸と書いてあるでしょう。卸小売のだから次にまあ、是だけぢゃ御理解にならん、又お願いさせて頂いたら、今のこの傘一本でこの方の道はこの傘一本で開くと言う御理解を頂いたから。だからこの云わば御の字に基づいて、今日は皆さんに聞いて頂いた。御の字はぎょうにん扁に卸と書いてある。
 業と皆さんがね云わば合楽の信心は、もう心行一本という事は表行の信心はもう卒業した、もう表行はいけない事になって来た。もう心行一本でと云う事になって来た。心行一本と云う事になって来る時に、自分の心は何時も毅然、整然として片付いて来る。だから自分の住もうとる部屋、言うならば風呂場なら風呂場がキチッとならなければならない、心行ですから心にね、例えばろくそうなか所に坐っとっても、なにも平気であると云う事は、もう愈々心が乱れとる証拠なんです。
 言うならばですね、表行を小売りと言うならば、言うならば心行一つにと云う事はもう卸です。言うならば金光様の先生にでもなってよか位に、力が頂かして頂けれる信心を、今教えて頂いておる時なんです。だからなら金光様の先生達が力を頂いて所じゃない信者も全部も、お徳を受けんならん力を受けんならん、傘一本で開ける道を体得しなければならない。だから今日は卸しでの御理解です。
 言うな皆さんももう言うなら、半玄人と言う半玄人と言うとちょっと可笑しかけどね、合楽にゃやっぱこりゃ本当に先生以上の玄人が居りますよ。言うならばプロ級に対する御理解です今日の御理解は。時々どん参って来て、只難儀な事お願いするだけの様な人には、今日の御理解は解らんけれども。本当に例えば自分自身が先ず助かって、人の難儀が取次ぎ助けられる位な、ならおかげを頂こうと言うならお道の修行でもしておる、先生方であって見ればです。
 今日私くしが云う事を、本当に解って体得しなければでけんですね。只布教にばかり出たっちゃ人が助からんならどんこんされん。ね。出たが最後パーッと人が助かる様なおかげを頂く為にです、傘一本で開ける道が開ける様なおかげを頂く為にです、今日皆さんに聞いて頂いた様な信心を、身に付けて行く、言わば信心の修行の楽しみを作って行かねばいけん。御の字と言う字はぎょうにん扁に卸と書いてある、同じ修行でももうプロがする修行、そのプロがする修行は。
 もう今此処では心行だと極まったと言う事になっとる。心行を本気でさして頂いとるならばです、とてもとてもそこに履物が散らかっとるならば、それをキチッとこうして行かねば居られんのが心行なんです。それこそ自分の心が光り輝きする様になるから、自分の周辺も又光り輝きする事ならなければ、私は心行しとると言う事はない。所が心行と言うのは、心の行ですから、ズルければどげんでんズルけられる。するまいと思うたら、しとるごたる顔しとるだけで、言わばわからない、ね。
 信心する者はやっぱりです、変人になれ変人にならんとおかげは受けられんと仰るがです。なら変人とは超常識か、超道徳かにならして頂かなければならん。ならどう云う事が、超常識か超道徳かと云う事は、ちょいと説明した位では解らん。それこそ私くしと妹の問じゃないですけれども、私の言いよる事が解らん、そこで御理解を頂かなきゃならないと云う事になるのです。その言うならば神秘的な事は、信じないと言われるその先生でもです、神様がどうかして助けたい、信者も助けたい。
 だからこそそう言う、やっぱそう言う不思議な事はあまりそのピンと来ない先生でもです、一遍合楽の先生に尋ねて見ろうか、お伺いでもして見ろうかと言う気になられた訳です。そして例えば難儀な問題を沢山持って居られるがです。そう言う難儀な問題もです、そう言う例えば、自分のものは、もう振り捨ててしまって、自分の事なんか問題じゃない、自分は何時でもがね、船諸共と言う気にならせて頂き、なからな食べん与えられんならもう要らんと言う位なね。
所謂潔い精神、潔い度胸と云う物を造らなければです、神様の本当の御神徳に触れる事が出来ない。触れただけでも出来ん 。その御神徳を今度頂くと言う事になればです、今日私が皆さんに聞いて頂いた、少しは増しなですな修行、それこそ人がにん扁なら、私はぎょう扁と言う信心、表行ぢゃない心行一点張りね、本当に心行一天張りにならして頂きゃです、自ら力が沸いて来る。
 朝参りなんかでもそれこそさせて貰わなければ居られない信心の躍動を心に感ずる様な、おかげが頂けれる様になる。そう言う修行を今日はプロの言うならば修行だと、言うなら卸売りの修行だと、それが御の字になるのだと云う事を聞いて頂いた。なら私くしだんそげんプロになる事いらんけんてん言わずに、信者が言うならば先生になると言うのじゃない、プロ級のです信心を頂かなければ。
 信者でもお徳は受ける事は出来ません。ですからもう一つ本気でね、お道の信心のプロ級を目指して頂いて、どんな場合であっても、どんなに雲行きが悪うなろうが、どう言うお日照りの日であろうが、暑い思いをせんで済む、サア曇って来たからおよたれんで済む、慌てんで済む、走り出さんで済む様なおかげを頂く為に、この一本の傘が大事だと、その一本の傘を目指して、お互い信心修行をする事ですね。
   どうぞ。